学ぶこと/学習を再定義する
ここ10年ほど、前職パイオニアとマイクロソフトの時代に、テクノロジーを通して、教育にいろいろな変革を起こすお手伝いをしてきました。そのなかで、日本における教育の過去を調べ、現在を共に生き、そして自分なりに未来を見渡してきました。
活動をすればするほど「どうもなにかが違う」と、違和感を抱き、この違和感がどこから来るのかをずっと考え続けてきました。
結局、いまのように「学校と社会が切り離された状態で、教育すること」が間違っているのではないかと、思い至りました。
特に、自分の人生を振り返って、教育課程を卒業した後の学びが、それまでの学校の学びと連続していないこと、体系化されていないことが不満でした。自発的に学ばない限り成長が止まってしまうのに、学校を卒業すると、学びも卒業してしまう人がなんと多いことか。
だからこそ、学びと生活をリンクさせる必要があると思いました。
このシリーズ自体を「求道」とコンセプトした背景はそこにあります。自分の道を追い求めるためには、学びを継続しなければならない。
逆に言えば、年齢が低いからといって一律に教育されることにも問題があると考えました。
ひとは、なりたい自分になるために学び、自分の可能性を増やすために学ぶのです。
そのためには、一人一人が個別に学べる仕組みが必要だと思います。
いまではテクノロジーを活用した「個別最適な学び」が可能です。
ただ「教育業界は変化を嫌う」傾向が強く、AIなどによるデータ把握などの導入に対しては反対も多い。
教育にITを使う活動を通して「体感」してきたからこそ、そうした反対圧力の強さを理解できます。
そこで、企業に属して発信していた方法とは別のアプローチを考えました。
テクノロジー活用に触れず教育の概念から、本来の意味での「生涯学習」へ導く方法を模索したのです。
日本の教育システムの原点はプロイセンにあり
電子黒板を発売するときに研究したのですが、この日本の教育システムの歴史はそれほど古いわけでもなく、明治維新以降に始まります。それは、当時のプロイセンの兵学校のシステムを導入にしたに過ぎません。
1763年にプロイセン国王フリードリッヒ2世が、5歳~14歳までを就学期間と定めた義務教育導入。そこのルールとして授業時間をチャイムで管理したり、黒板での一斉授業スタイルを開発し、それを実践するための教育課程や教科書などを定めました。
目的は、新たに誕生したプロイセンという国家のために、若者たちを早急に、かつ大量に、従順な兵士として育成することでした。
この急造・大量育成のコンセプトは、大量生産・大量消費時代に必要な従順な労働者=消費者の「大量教育」にマッチしていました。それで先進国で爆発的に採用されていきます。
当時、近代国家の階段を急いで駆け上がりたかった明治政府のコンセプトにも合致していたために日本の教育制度の基本として採用され、富国強兵の基盤になったのです。
「教育は変化すべきではない」派の方々は、しきりに日本の教育システムは正しく、結果も出してきたのだからこそ、変える必要はないと言います。
そういう方に、日本の教育方式の原初を確認すると、このプロイセン式などを知らずに、ただただ文科省の強制する教育方法の実行を信じていることが多い。またそうしたご意見の方には、「教育は産業育成のためにしているわけではない」という人が多いのですが、まさにこれこそが「大量生産・大量消費産業のための大量教育方法」なのです。
しかし、さすがにこのシステムの耐用年数も尽きています。
特にデジタル化とグローバル経済に失敗した日本では従来の教育の枠組みの限界が指摘されています。
いまこそ新たな進化が求められています。
テクノロジーを活用した個別カスタマイズが当然の時代。すべてがグローバルにつながる世界。加えて、インクルーシブ教育やLGBTなどに配慮した多様性への対応。地球の持続可能性への配慮。・・・
今後、リアルだけでなくネットでの価値も含めて経済が進化していく中では、「大量生産・大量消費産業のための大量教育」の欠点が多く指摘されています。
授業を受ける側からも大量教育から零れ落ちてしまう弱者への対応が、より求められています。
当の文科省ですら、こうした新時代への対応を重要事項と位置づけ「ひとり一人の個別最適化された学びへの変革」を約束しています。
いまや一律の学びから、個別の学びへ進化すべき時なのです。
人生100年時代らしい「学び」のバージョンアップを
この教育への変革の波は、世界ではまず「学校の年代で学びが終わる」という固定概念の脱却から始まりました。
21世紀になり、「生涯学習」や「リカレント教育」などのコンセプトで「生涯に渡ってバージョンアップし続けることの大事さ」が強調されました。リンダ・グラットンらの「LIFESHIFT」は、この流れから生まれています。
学びは人生を通じて行うもので、社会と切り離された「学校という限定された時空間」だけで行われるべきではないのです。
医学の発展で平均寿命が伸び、生涯の現役活動年齢も長くなっています。
それだけに、長い人生において、激しく変化する時代に対応して、自らが変化し続ける力が必要なのです。
私の親世代は、就職した企業が引退の時期まで隆盛をキープできていました。
ところが私の就職した電機メーカーは現役引退までの35年間を会社を継続できませんでした。
次の世代は、より短い期間で企業の隆盛が変わる時代に対応しなければならないでしょう。
1社の命運に人生をかける時代など、とっくに終わってしまったのです。
そんな時代には、自分に必要なスキルを自分でデザインして、どん欲に学び続けるしか、人生をサバイブする術はないのです。
求道学「学び編」
そこで、ゼロベースで教育を再定義してみたのが、求道学の「学び編」です。
ゼロから考え直したときに再発見したのは、日本古来の「伝承」の概念でした。そして、プロイセン式の学習方法に替えて、それ以前にあった旧来の伝承をバージョンアップする「求道学」のコンセプトが定まりました。それを推し進めていくと、旧来の「師匠と弟子」、「道場という場」を再定義していくことになりました。
これが海外の方にも理解できるかどうか悩みました。
でも、よくよく考えてみると、スターウォーズの「フォースの伝承」をイメージしてもらえば理解可能だと思いつきました。SW以降、この「マスターからパダワンに道が継承される」概念は、世界共通なのです。ルーカスが日本好きでいてくれたことに感謝します。
実際は弟子編と師匠編で構成されています。今回のサイドAでは、前半部にあたる「弟子編」をご紹介します。
SideA 弟子編「至芸の追求」
弟子編は、「至芸の追求」がメインテーマになっています。
学びの主体者としての「学びへの自覚」が先にあり、「なぜ学ぶか?」よりも、「自らに獲得したいスキルがあり、それをいかに学ぶか」が先にたつ形を取っています。なので初学者ではなく、ある程度の自律的な年代を焦点にあてています。そして、そこからの生涯に渡る全年代を対象にしています。
我々は常に、なりたい自分になるために学び、自分の可能性を増やすために学び続けるのです。
この説では、まず至芸の獲得のためには、無限に更新し続けることが基本だと主張します。
学び編 1 立ち止まることなく 常に学ぶ|太田泉 / 太泉|note
無限に 変わるために 学び続けること
無限に 学び続け 器を作り変えていくこと
無限に 道を多様に 拡げていくこと
無限の更新 こそが 学びの 本質
学びの本質を、こうした「目標ヘの希求」という直線運動に求めました。
これはある意味で、21世紀スキル時代と呼ばれる最先端の学びで求められている「正解のない課題に立ち向かう心がけ」を表現しているのだと思います。
独自を育てる
弟子編の最重要コンセプトとして「独自を育てる」ことを説きました。
正解のない時代には、まず自分の軸が大事です。
自分の軸がないのに、他人の意見ばかりを聞いていては同調はできても、真の意味での協働はできません。
他人と違う視点があるからこそ、そのひとの価値があるのです。だからこそ、他人の意見と自分の意見を調整するのです。
この部分にこそ、ひとつの正解を覚えさせる「大量教育」のデメリットがあると考えます。
次の教育の在り方では、一律に同じ考えを持つことよりも、他人と違う考えを持つこと尊重し、そのうえで、他人と意見をすり合わせていくスキルを身に着けることを大事にしたいです。
学ぶ者は 常に
独自を 探し
工夫で 磨く
学び編 4 独自を育て 工夫で磨く|太田泉 / 太泉|note
自分の内在的な欲求としての「自分のオリジナルを追求する」心構えが、スキル向上の原動力になります。
「生涯かけて、自分のオリジナルを創り出す」ことが、現在、最も大事なのです。
ただ「自分らしくあれ!」と他人が言うのは簡単です。
若者たちは「そんな簡単に自分らしさなんて見つからない」と嘆きます。
実際は、国民すべてが、大量生産・大量消費時代の従順な労働者=消費者を造り出すための「大量教育」に飼いならされている状況で、「オリジナルを育てろ!」と口で言うだけでは、空論です。
それでも、世界がつながり、すべてが同時空間で、均質になった社会では、今までのように都合よくキョロキョロと見まわして、世界のどこかで流行っているものを、日本に物まねして持ってくる手法ではもう稼げません。
他人のアイディアで、差別化する時代は終わったのです。
そしてひとりのリーダーのアイディアに大量の労働者が群がって、YESと服従していれば生活できた、ある種幸福な資本主義の時代も終わりました。この事実は、追従さえしていけば良いと考えていた多くの人にとって残酷な宣告だと思います。
この大競争の現在、自分自身で、ゼロから1を生むことが最重要になってしまったのです。
でも、最初から独自のものなど存在しません。
我々に与えられているのは、等しい「四角い岩」なのだと思います。
独自性とは、その「四角い岩」から一刀づつ、彫刻作品を削り出していくようなもの。
それは時間をかけて、じっくりとたちあがってくるものなのです。
己が成す、日々の活動の一挙手一投足。それから、少しずつ、ゆっくり、じっくりと形作られていくものが「オリジナル」なのだと思います。
それをなすのは、日々の修練です。
日々の修練をしないものに、独自が与えられるはずはないのです。
これを教えないで「自分らしく!好きなように生きろ」と投げ出すから、自分探しの無限ループにハマるのです。
等しく与えられた四角い岩から、自分で、自分の「独自」を削り出せ!
「自分にオリジナルなどない」と嘆く若者には、そうして励ますのが、正しいと思います。
学びは 円環
ひたすら 同じ流れを 繰り返す
識る ー 試す ー 体得する ー 捨てる
オリジナルを模索して、削り出す活動のなかで、知識の吸収、試行錯誤、スキル習得、不要な部分の削除というサイクルを回し続けることを推奨します。
模式的に言うなら、北極星に向かう求道の直線運動を、このサイクル活動が、らせん状に取り巻いているイメージです。
今風でいえばPDCAサイクルやリーンスタートアップの概念といったほうが理解しやすいかもしれません。
変化するために学び続けるのです。
知識を吸収するだけでは学びと言えません。
体得したスキルを、いついかなる時にでも、スキルとして発動できて初めて「学びの獲得」と呼べるのです。
激変する時代に対応するために、新しいスキルを獲得するたびに、古き習慣を捨てることを推奨します。
刻々と変わる状況に柔軟に対応し、動作が洗練していくことで、至芸に近づくのです。
未知の領域を探し続ける
この至芸のサイクルを回し続けるために重要なことは、「未知の領域を探し続けること」です。
未知の領域に気づけば「学びに終わりはない」という意味であり、常に新しい要素を探し続けることが「至芸の追求」だという、まさに日本的な求道の意識があります。
できないことがあるからこそ新しい挑戦が できるんだよ
未知の領域があればこそ 学びの円環が回るんだ
この「未知の領域を探し続けること」を個人だけでやり続けると、早晩、限界が来ます。
その時になって、師と道場を探すべきだとしています。
師と道場を探す
師匠を 求め 道場を 探すのは
あなたの人生の最大の 冒険さ
個の学びを 越えるんだ
学び編 3 師匠を求め 道場を探す|太田泉 / 太泉|note
学校という、国家や社会から自動的に与えられた場所ではなく、自らの独自を求める活動の中で、たどり着くべき「学びの場」の提案です。企業における「研修」も同じような他者からの強制が伴います。
新しい学びの形はあくまで内在的な欲求に根付いているべきだと感じます。
自分の意思で学ぶべき場所を探し、入門を願い出て、許されてその学びの場に参加する。
この自発的な行動が、学びの質に影響すると考えます。
師匠に出会い、道場で学び始めることで起こるのが「創発」です。
あなたの独自と 師匠の独自がその時 衝突する
そうやって 独自な領域同士が衝突すると 創発の火花が起こる
その衝突で あなたは 新しい学びを得る
その衝突で 師匠も 新たな学びを得る
いいかい 一方的な学びなんて 存在しない
上のものが 下のものに 教え 育む という 目線では 本当の学びは 生まれない
師匠と 弟子が 学び 習う というのは 相互に衝撃を 与えるものなんだよ
先生側が能動的に変わらない場は、学びの場ではない。これが現行の学びのシステムとの決定的な違いだと思います。
従前の大量教育の前提では、固定された学習内容が存在していて、それをきっちりと生徒側に定着させる役回りで「教員」が大量に必要でした。同質なものが大量に必要だからこそ例外を認められず、全員が同じことを再現して、同質の「生徒」を量産することが目的にされていました。
この理屈で考えれば「教員」も同質であるべきで、学びも同質でなければなりません。そこでは、残念ながら教員が変化していくという前提には立てないのです。
求道学では、先生も生徒も同じく変革される「創発の場」が大事だと提案しています。
教員がすべての生徒に反応して成長を続けるという状況を実現することは、難易度が非常に高いと思います。
また逆にいまでも生徒の活動が教師の成長を促すことは現場で頻発しています。
ただ、すべての生徒の、すべての成長にリンクして、教員が変化を続けるという在り方は、教育制度の抜本的な改革を要求するものだと思います。
しかし、そもそも「大学」のベースになった、ギリシヤ・アテネの学堂などの基本精神は、対話による相互変容にあります。学びの場のデザインとしては、不可能ではないのです。
ただアナログだけの手法では手間がかかりすぎて、非効率だっただけです。
ここから、弟子編から師匠編へのブリッジ概念が発芽します。
全の学びは 創発による
新奇の誕生 異なる分離 多様な進化
そして 技芸が伝承される
弟子単体の「至芸の追求」が個の学びだとすると、師匠が考えるべきものは、「技芸の伝承」です。
その延長上に「道」そのものの発展があります。
弟子と師匠の創発が無限の可能性を生み出し、技芸を大幅に進歩させていくのです。
ここでは「個の学びではできない 多様な衝突で 切磋琢磨する場」を作り出すことを推奨しています。
もちろん、道の継承はとても長い期間を必要とするので、変わり続ける状況の中でしなやかに対処することが肝要です。
それでも 志はつながる
それでも 道具の改良は つながる
それでも 人の革新は つながる
そして 芸道は 時を越える
と結びました。
こうした志の場は、営利主体の企業形態ではかなり困難だと思っています。
「学校」という組織がこのコンセプトを吸収して変わることができるならそれはそれでよしですが、より公益を意識した集団による「学びの連続体」を社会的に発明していくことが必要になるかもしれません。
次回、サイドB「師匠編」に続きます。
参考
“【人生100年時代のLifeshift】人生の「学び」を再定義する” への2件のフィードバック
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